雑誌「チルチンびと」72号掲載「土壁の歴史」
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187真っ平らなもの、直線的なものとなる。記録される書字のように連続して並ぶ。城壁は版築によって平らに直線的に、宮殿の壁はあくまでも平らになる。倉庫の壁も計算可能な均質な単一のものに、板にあれ、石にあれ、泥にあれ数値化されたものとなり、柱間も一定に決められる。 寺院の建築とともに大陸や半島から導入された版築技術。仏教画の壁画の絵と技、漆喰の白壁を塗る技術、東大寺金堂の壁画下地の白く真っ平らな壁を塗る画工たちの卵から左官は生まれた。奈良の東大寺と全国につくられた国分寺の寺院建築が、版築や塗り壁の技術を各地に広めて行った。それらの国分寺の普請場に流れていった大工、瓦師と画工たちから専門の家づくりの職人は生まれたのだ。そうして、縄文、弥生、奈良、中世と、家の壁は縄文弥生のセルフビルドと専門の職人の手でつくられてきたというのが土壁の歴史といってよい。洗練された土壁へ ただ安土桃山時代、茶の千利休が武家の城郭建築や貴族の書院造りの建築に対峙するかのように原始に戻り、黒木の柱に草屋根の草庵茶室の壁に田舎の納屋のように荒壁を塗ったとき、再び土壁が美の対象としてよみがえった。 それ以降、土壁は洗練され、数寄屋茶室の聚楽壁としてルネッサンスを迎え、明治、大正、昭和へと伝えられてきたが、鉄とコンクリートとガラスの建築によって、また戦後の住宅建築の工業化の流れの中で、その命脈は絶たれようとしている。 しかし、東北の津波のあと人びとが再生を目指しているように、生活とともにつくられてきた土壁の再生の道が見えないわけでもないのだ。利休の草庵茶室に影響を与えた土壁茶室、数寄屋の洗練された土壁へ右/奈良当麻寺中之坊、書院の聚楽壁。 左/京都宝ヶ池、村野藤吾が設計した数寄屋の茶寮。右/奈良当麻寺。白土の聚楽を塗った茶室の洞床。 左/奈良当麻寺。丸窓の茶室。右/田んぼの隅に残る泥の小屋に利休は草庵の茶室を夢見たのか。 左/田舎の土壁に残るスサ模様から、茶室・待庵の長スサ壁の発想へ。右/藁スサや櫛目跡の残る黄土の荒壁。その姿に利休は美を見出した。 左/古い荒壁に浮かんだサビの合間の藁スサの模様に利休は侘びを見た。こばやし・すみお 略歴は134頁参照。

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